働くことを楽しみ、味わう。「日本食」を武器にスイスで戦う料理人―小林豊

小林豊/Yutaka Kobayashi

海外で大ブームとなっている日本食。現在その厨房に立ち、世界に挑んでいる料理人がいる。言葉が通じなくてもどんな人でも世界に挑戦できると信じる小林豊は、なぜ料理人として世界で勝負するのだろうか?

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1986年、埼玉の田舎で生まれ育つ。大学時代は英語を専攻するも料理に明け暮れ劣等生。にもかかわらず、趣味の海外旅行で世界の大きさに衝撃を受け海外で働くことを決意。東京の某一流ホテルで働くも辞めてスイスに渡る。現在スイスのホテルのジャパニーズレストランで日本料理のシェフとして働く。日本料理アカデミー会員、日本フードアナリスト会員、日本フードコーディネーター会員として活躍中。

001.
海外で日本食料理人として挑戦する理由

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大学時代から料理人として世界で挑戦しようと志していたんですよね。そのきっかけは何だったんですか?

Answer

きっかけは、大学1年生の夏休みを利用して一人でアメリカに行ったことでした。

高校時代、将来の夢がなかった。夢を見つけるためにはもっといろんな事を見たり経験しなければいけないと思い、そのまま世界を見に行こうと思いました。そんな理由で選んだ大学の専攻は英語。少しでも多くの国に行こうと思ってました。

最初に行ったアメリカで衝撃を受けました。日本では感じたことのないスケールの大きさと解放感。いろんな生き方、遊び方があるんだ。自分はすごく狭い世界でしか生きてこなかったんだ。世界にはまだまだ面白いことがたくさんあると感じ、それから将来は海外で働きたいと強く思うようになりました。

「じゃあ僕は世界で何ができるんだろう?」と考えた。行きついた先には料理しかありませんでした。四人兄弟で両親が共働きだった家庭で育った僕は、自分でご飯を作らなくてはならないことが多かったんです。子供の頃よく簡単な料理を作ってたんですよね。そんなことから趣味でやりだしたバイトが飲食店でした。やってみたらすごく楽しくて。そんな単純な理由で料理で世界に行こうと決めました。

料理で勝負しようと決めたのは、本当にたまたま。田舎育ちの自分の実家ではオシャレなイタリアンやフレンチより和食ばかりだったので、和食に絞ったのも幼い頃から慣れ親しんでいたからというだけです。

アメリカから帰ってすぐに来年の夏は日本を周ろうと決めました。世界に行く前にもっと自分の事、日本の事を知っておきたかったのです。

バイト先からもらった休暇期間は2週間。実家の埼玉から西に行き九州を周って広島の原爆のセレモニーを見て実家に帰るという西日本を周るルートを取りました。自分自身の事をもっと深く考えたくて無一文で出発。行きたいところを紙に書きヒッチハイクをしながらたくさんの人に出会い、お世話になりながら達成した時はもうクタクタでしたがすごい充実感があったのを覚えています。どんなことでも、やろうと思って本気になればできるんだと学びましたね。そこにはたくさんの人の助けがやっぱり必要不可欠だってことも。

002.
言葉でなくても、料理で通じ合える

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大学卒業後、アメリカに働きに行ったことについてお話を聞かせてください。

 Answer

日本食を世界で広めようと考えていたんですが、そのヒントを得えるために、日本食が海外でどのように受け入れられているのか、まず自分の舌で確かめに行く必要がありました。それができるなら将来の自分への投資だと思って、無給でも海外に働きに行きたいと思えたんです。

海外で日本食を最も広めたと言われる日本人のオーナーシェフが自身のもつ東京のお店に来るのを見計らい、食事をしに行きました。会計を済ませてお店から出ると、すぐに最寄りのコンビニへダッシュ。便箋を購入して食事の感想と働かせて欲しいという旨を綴り、お店に戻ってその手紙をオーナーシェフに渡しました。

次の日にまたお店に行き、彼に直接お話をすると、「アメリカに来られる準備できたら連絡をしてきて」と軽くあしらわれちゃって。「俺は本気なんだからな!」という思いで必死にお金を貯めて、思い切ってアメリカ行きの航空券を購入。また彼に会ってそれを伝えると、アメリカのお店に来る日と連絡先を教えてもらい、2ヶ月ほど働かせもらいました。

料理人は日本人と外国人が半々くらい。言語が通じない外国人と働く中で、「言語でなくても、料理で通じ合える」という感覚を得ました。何か一つでも武器があれば世界で可能性が広がる。自分のできる日本料理のスキルをもっと高めて、確固たるものにしたいという思いが強くなりましたね。

今では料理が自分に多くのものをくれます。スイスにこれたのも、英語でコミュニケーションをとれるようなったのも、たくさんの人と出会うきっかけをくれたのも料理があってはじめてできたことです。今後も料理にたいして努力していきたいです。

003.
人生、「やった者勝ち」

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アメリカから帰国後、どうされていたんですか?

Answer

自分が持っている日本料理の知識と技術をもっと突き詰めたいと思いました。その後何年か働いてから、親方から東京の某有名ホテルを紹介してもらって、そこで働くことに。料理人ならば、誰しも一流の場所で働くことに憧れるんですよね。自分もその内の一人でした。

でも蓋を開けてみるとそこは典型的な年功序列社会。こんなナンセンスなことあるか!と1年で辞めてしまいました。しかも仕事内容は言われたことをやるだけの毎日に、自分で考える力というのがどんどんなくなってしまう危機感を抱きました。

親方たちから料理人は、「やった者勝ち」と言われてきてました。少しでも手を出してやらせてもらった方が将来のためになる。挑戦することに正直ビビります。でも、やった自分、やらなかった自分、どっちが成長してるかって言ったらやった自分でしょ。

だから僕は「やった者勝ち」と思って辞めました。もう自分でどんどん挑戦していこうと。やるかやらないか決めるのは、他人じゃなくて自分自身ですもんね。けれど、そこで働いたことで「自分が本当にやりたいことはなんだろう?」と改めて考えられた意味では、行ってよかったと感じています。やっぱり海外で仕事したかったんですよね。

004.
日本を飛び出して働くことは、難しくない

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スイスでの仕事を見つけるのは難しかったんですか?

Answer

インターネットで応募して、英語で履歴書と志望動機書き、Skypeで面接して、あと何枚か必要な書類そろえて終わり。

誰でも海外で働けるのだから、世界に働きにいく人がもっとたくさん増えてほしいと思います。自分はたくさんの素晴らしい料理人の方々とも出会いました。

自分は、料理が特別上手だとか才能があるとは思っていませんし、自分より世界に出て行くべき料理人は山ほどいると思うんです。語学力にしたってバイトにばかり行って大学を週に一回くらいしか行かないような劣等生の僕は英語を専攻していたくせに全くしゃべれませんでした。

たしかに日本の料理人の労働状況は悪い。15時間労働とかは、ざら。仕事から帰って寝て起きてまた働きという生活。だから仕事以外のことをなかなかできないし、外の世界に触れる機会が少ないんですよね。言語学習だとかの自分のスキルアップの時間や、他業種の方と出会う機会もあまりないんです。

けれど、僕が海外に行くきっかけとなったオーナーシェフのような海外で働く料理人が増えれば、日本の料理人が世界に目を向けるきっかけになるかもしれない。同時に、世界に日本食料理店が増えれば、海外の人達に日本にもっと興味をもってもらえる。そんな人たちに、日本という国の素晴らしさを料理だけではなく知ってもらうきっかけにもなると思うんですよね。

005.
働きながら、地球というボールで遊ぶ

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海外で働くことに関して、どのようなビジョンがあるか教えてください。

Answer

「日本食」を通じて、日本と世界の架け橋になりたいです。ご存知の通り和食は世界でどんどん人気になっています。その国にはその国の料理がありそれはかけがえのないとても素敵なものです。自分はやっぱり日本料理が好きですし、日本が好きです。

海外にでて改めて日本の様々な事に良さを感じ、誇りに思えます。そんな自分が生まれ育った国の良さを世界の人にもっと知ってもらいたいです。実際に日本にきて本場の日本料理を味わったり、日本の文化、歴史、自然、人に触れて楽しんでもらえたらこっちまで嬉しくなっちゃいますね。こんな感じで、僕たち日本人を含め世界で各国の良さ、魅力を楽しみ合って世界がどんどん良くなっていったら最高じゃないですか。

あとは楽しむ事を忘れずにいきたいです。地球っていうボールでもっとみんなで遊び合いたいですね。この球は一つしかないけどみんなのものだし、生まれた瞬間からみんなレギュラーで補欠はいない。一人ひとりがちがったこの球の遊び方をしてる。これからもいろんな人に出会い、どんな人がどんな風にこの球を使って楽しんで遊んでいるかを見ながらいつまでもワクワクしていたいです。

TABI LABO この世界は、もっと広いはずだ。