「マインドフルネス」の最前線──「VR」と「ヨガ」の融合

マインドフルネス、コンシャスハッキング、そして瞑想──。私たちの意識を見つめ直し、よりよく活用するための試みが、今、様々な手法でおこなわれています。VR(仮想現実)という最新のデジタルテクノロジーを用いて開発が進められているトレーニングギア「VR瞑想」の現在と未来に、「クリスタルボウル」の奏者である私 Magali Luhanが迫ってきました。

古代インドから続く修行法と
最新テクノロジーの出会い

「VR瞑想」は日本におけるアシュタンガヨガの第一人者・Ken Harakuma(ケンハラクマ)氏が監修をしています。

「ヨガの先生が瞑想のマシンを監修?」と思われるかもしれませんが、アシュタンガヨガの教えには「8つの枝(八支則)」というものがあり、私たちが「ヨガ」と聞いてイメージする、複雑なポーズや動きは「アサナ(座法)」と呼ばれる枝のひとつにすぎません。

複雑なポーズや動きがヨガのすべてではなく、マインドフルネスで語られるような意識の集中や観想、一体感も、アシュタンガヨガの大切な枝のひとつなのです。

私は「クリスタルボウル」という水晶から作られた楽器を用いた、瞑想や癒しの音楽イベントを手がけており、これは、楽器から奏でられる深い音によって意識を自然に深い瞑想状態へと誘導していくというもの。

ヨガが内的な要因(自己の鍛錬)によって瞑想へ至るのと違い、外的な要因(楽器の音)によって瞑想へと導いています。

アプローチは異なりますが、どちらも自分自身のあるべき姿を再確認し、バランスを整えていくという点では同じ方向を向いています。

今回は、VR瞑想の監修者であるケンハラクマ氏と、開発を担当した『株式会社ヴィヴァーチェネクスト』のコンテンツクリエイター・村山英子氏にVR瞑想の可能性についてお話を伺いました。

©2019 TABI LABO

Magali Luhan(以下 マガリ):まず、VR瞑想という企画のキッカケといいますか、どういった経緯で開発がはじまったかについて教えていただけますか?

 

村山英子(以下 村山):前職の出版社でケン(ハラクマ)先生の書籍を制作しており、本を通じてヨガの素晴らしさを伝えていました。デジタル業界に移ってから「VRという新しい技術をヨガに用いられないか?」という企画が立ち上がりまして、最初はヨガのレッスンそのものをVRで実現しようとしていたんです。

 

ケンハラクマ(以下 ケン):VRゴーグルを着けるとヨガスタジオの映像が観えて、VRの世界でインストラクターからアサナ(ヨガの動き)が学べるというものだったんだけど、ゴーグルを着けたまま動くと1分くらいで乗り物酔いみたいに気持ち悪くなってしまって。

 

マガリ:たしかに、VRゴーグルをしたまま身体を動かすのは難しそうですね。

 

ケン:そうなんです。「じゃあ、動かないで学べるものを」ということで、瞑想のトレーニングにたどり着きました。

 

マガリ:なるほど。じつは私は最初に勘違いをしていたのですが、「瞑想の体験をする」ための装置じゃなくて、「瞑想のトレーニングをする」というものなんですね。「瞑想脳を作る」というアプローチが興味深かったです。

 

村山:そうですね。アシュタンガヨガの8つの枝では、6番目の「ダーラナ」と呼ばれる「集中」と、7番目の「ディヤーナ」と呼ばれる「瞑想」を経て、8番目の「サマディ(一体感)」に至るとされています。

VR瞑想では、映像とガイドに合わせてそれぞれの意識のコントロールを学べるようになっています。

©2019 TABI LABO

ケン:すでにある瞑想トレーニングの多くは、何かの対象に意識を向けていく「集中」の行為なんだよね。マントラ(真言)を唱え続けるとか、キャンドルを見続けるとか。

なので、そうやって意識をどこかへ向かわせるのはみんな得意で、意識を向かわせていれば、自分には意識が向いてこないから、悩みなんかも忘れることができる。

でも、「瞑想」っていうのはこっちが「行く」のではなく、向こうから「来る」状態。リラックスして自分に向かってくるのを受け入れる状態で、VR瞑想の映像とガイドだと、そこを実践しやすくなっています。

 

マガリ:言葉の表現としてややこしくなっているところがありますけど、集中することと瞑想することは別の意識ということですね?

 

ケン:そうです。瞑想は「する」ものではなく、「来る」もの。集中は一点のみを見つめている状態だけど、瞑想は複数を同時に眺めている状態。そうすると、やがてその状態そのものが自分と一体になっていき、それをヨガの世界では「サマディ(一体感)」と呼んでいます。

 

マガリ:「する」ではなく「来る」ですか。

 

ケン:たとえば、クリスタルボウルという楽器を演奏するときも、最初の一音は集中。意識を研ぎ澄ませて、狙って鳴らすよね。でも、その次に別の音を鳴らすときは、すでに鳴っている音を聞きながら鳴らしているはず。「鳴らすぞ!」っていう意識だけじゃなく、前の音を受け入れながら、次の音を鳴らしているのは瞑想の意識。

やがて、たくさんの音と一体になっていくような感覚になっていくでしょ?

 

マガリ:確かにそうですね。楽器もそうですし、DJなんかでも、終わった後で「あのとき何を考えてやっていたの?」と聞かれても、説明ができないことがありますね。

その場の状況をリアルタイムに受け入れつつ、音を構築しているというか。

 

ケン:ジャグリングで3つくらいのボールを落とさずにトスし続けるのも瞑想状態だね。ひとつずつのボールを見ていると落としてしまうけど、全体を受け入れるようにすれば、落とさずに続けられる。

 

マガリ:なるほど。普段の生活において、集中ではなく、瞑想の状態になることのメリットって何がありますか?

 

ケン:ひとつは疲れなくなること。自分自身の意識がすごく落ち着きます。

台風の目みたいなもので、強力なエネルギーを持っていても、いちばん静かなところから眺めていられる。

誰かと会話をするときも、自分の意識で内容をジャッジせずにそのまま受け入れることで、相手が伝えたいことの本質が見え、会話がムリなく続けられる。カメラマンが写真を撮るときも、被写体を狙い定めて撮るのではなく、フレームに入ってきたものをそのまま受け入れてシャッターを切ると自然な画になるでしょ。

 

マガリ:たしかに、常に自分から求めている状態だとぶつかりがちだし、疲れてしまうというのはよくわかります。

ただ、現代の社会において「自ら何かを求める」傾向ってすごく強くなってるように感じるんですよね。隙間の時間があればスマホで何かを読んでいたり、口コミを調べたり、SNSで発信したり、自ら何かを求めることがすごく多くて、それは社会全体がそういった方向を求めているともいえないでしょうか。

 

ケン:そうですね。でも、損をしたくないという思いが強すぎると、いろいろな部分で「戦いモード」になってしまって、無駄にエネルギーを消耗してしまうように思えます。

集中モードで戦うばかりじゃなく、瞑想モードで受け入れることを心がけておけば、ジャグリングのように同時にいろいろなことができるので、結果的には損をせず、得をするんじゃないかな。

 

マガリ:戦いモード......確かにそうですね。

 

ケン:今は自分に関わってくるデータの量がものすごく多いから、選別していかないとパンクするでしょ。うまく選別できるようになれば、大都会でも楽しいけど、それができないと、まわりに人がいるだけで疲れてしまう。

 

マガリ:いつも集中ばかりじゃダメってことですね。かといって、受け入れてばかりでもダメでしょうけど。

 

ケン:どこのタイミングで集中し、どこのタイミングで受け入れて、どこのタイミングで一体感を味わうか──。その切り替えをしっかりできれば、ヨガでは「シッディ」と呼ばれる霊能が生まれるとされています。

 

マガリ:瞑想って座禅を組んでいる時間が瞑想に思えるけれど、そうじゃないわけですね。

 

ケン:座禅のようなアクション自体が瞑想ではなく、アクションをしているときの意識が瞑想なのかどうかなので、そっちを大切にしたいですね。

TABI LABO この世界は、もっと広いはずだ。