思い出のキス#10 「さいごの朝に」

 
誰にだってある。思い出すと、ほのぼのしたり、なんだか恥ずかしくなったり、切なくなったり、涙がこぼれそうになったり。そういう特別な感情が生まれるキスのエピソードを、みなさまにお届けしていきます。

#10「さいごの朝に」

 

「好きな人ができた」

ちょうど1年前のある日曜日。同棲していた彼からこう告白された。

ふつうの女の子は泣いたり怒ったりする場面かもしれない。だけどわたしは、決して取り乱したりしなかった。なんとなく別れの予感はしていたし、無意識のうちに心の準備ができていたのだろう。好きだの嫌いだのを他人が責め立てるのもお門違いだと思った。

「わかった。いつ出てく?」
「週末でもいい?」
「うーん、金曜日には出て行ってほしい」
「じゃあ、そうする」
「ありがとう。どこに住むの?」
「とりあえず先輩んち」

もともとわたしが一人で住んでいた家に彼が引っ越してきたから、出て行くのも彼。要領よく、仮住まいは見つけていたみたいだった。

週末まで引越しが待てなかったのは、できるだけ「いつも通り」を装うために、仕事がある平日をさいごの日にしたかったから。

 

 

幸い仕事が立て込んでいる時期で、あっという間に金曜日の朝はやってきた。

いつも先に家を出るのは彼の方だった。でもその日だけは、わたしが先に出ると決めていた。

「じゃあ、行くね」

準備が整い、玄関に向かった。するとまだベッドにいた彼ものそっと起き上がり、そして、見送りにきてくれた。

「今までありがとう。ごめんね」
「ううん、こちらこそありがとう」

靴を履こうと下を向いた時、涙が込み上げてきていることに気づいた。

 

本当は、仲が良かった頃の日課だった行ってきますのチューがしたかった。完璧に「いつも通り」を装った、さいごの日にしたかった。

 

だけど、できなかった。すこしでも彼に触れたら涙がこぼれ落ちてしまいそうだった。

「鍵、ポストによろしく」

わたしは、素っ気なくそう言い捨てて、いつもより少し急ぎ足で会社へ向かった。

 

協力:Y.K(26歳、一般事務)

TABI LABO この世界は、もっと広いはずだ。