「あなたはあなたであっていい」この言葉に何度も心が救われた。

昨年の11月のこと。私の元へ一通のメールが届いた。その内容は、大阪在住のAjuさんというアーティストの紹介をして欲しいというもの。メールにはこうも書かれていた。

「彼女のような障がいをもちながらも、自己表現をしている人たちが繋がっていきますように——」

この言葉に、なんだか心を揺さぶられ、メールの送り主にすぐに連絡を。そのことがキッカケで、私は今この記事を書いているんだ。

理解されない日々、
「死ね」とまで言われたあの日。

一通のメールにより、Ajuさんへのインタビューを実現させることに。まず、私はどうしても聞いてみたかったことがあったので、彼女に尋ねてみました。

「高校生になって、『場』 の空気を読めないことを初めとして、『生きづらさ』 が顕著に現れはじめる。」

というHPに書かれていたこの一文。一体、どんな学生時代を送ったのでしょうか。

高校の文化祭で、クラスのみんなが出し物で何をするか黒板に書いていくなか。私が「何もやらない」と書いたら、クラス中にざわめきが…。

 

「それ除外。」

「意味わからん。」

挙げ句の果てには「死ね。」とまで言われたのです。

 

私の中では、「しない」ことも1つの選択肢であり、なぜ非難されるのかわかりません。それからは、クラスでずっと自分の存在がないような奇妙な疎外感を味わいました。

 

それと、先生の話す意図が読み取れず、笑いを取る係になっていたことも。英語の授業のとき、「前回の復習をするぞ。iceが溶けたらどうなる?」と質問されて、当てられたとき。急いで見返した私のノートには、iceの文字しか書いていませんでした。別に、ノートを写し忘れた訳ではありません。私は咄嗟に「アイスは溶けたらおいしくないです。」と言いました。

 

すると、あちこちから、「ブブブーッ!」と吹き出すような笑い声が。自分では何がおかしいかわかりません。先生からは、「おいおい、夏バテか~?iceは氷の意味や。溶けたら液体のliquidや。話聞いてたか?Ajuは、みんなのリフレッシュに当てるといいな~。」と。

 

それからは、みんなが疲れ始めたときに、「そろそろAjuに答えてもらおか」と言われることが多くなり、私には苦痛で苦痛で仕方ありませんでした。その当時は場の空気、意図、行間が読めないという障がいであることを自分でも知らず、自分が理解力のないアホであると。そう認識してしまったのです。だって、「Iceって『アイスクリーム』の意味ちゃうの?溶けたら、そりゃ、おいしくないでしょう。」と真剣に思っていましたから。

「聞けていない感覚」が、
自分をとても追い詰める。

私は、どこか「聞くこと」に集中できていないと思っていました。それは高校生のときに始まったものではありません。何かひとつのことをしていても、次々に目に入ってくるものに意識がいき、気が散ってしまうのです。高校に入ってからは、進学校ということもあり、授業の進度がはやく「聞けていない感覚」が自分をとても追い詰めることに。

 

自分なりに、授業を聞けるように書くことをやめ、聞くことに集中しようと工夫をしてみたところ。ノートを取ることをやめても、聞けている感覚がありませんでした。私の耳からは、先生の声以外に、エアコンの音、近くの席の人の声、廊下を通る先生の足音が入ってきて、どれもが同じように聞こえてしまう。だから、どれを聞けばいいのかわからなかったのです。

 

やがて、集中力のない自分に苛立ちを感じるように。耳で聞くのはダメだ。次は「目で集中しよう」と。しかし、それは耳で聞くよりも、もっと難しいことでした。黒板の周りの掲示物の歪みが気になる。いけない、いけない。と思って上を見ると、天井の模様が何パターンによって、できているかに夢中になってしまう。床を見ても同じことが。

 

耳でもダメ、目でもダメ。全然ダメだったのです。それでも、なんとかして授業を理解したくて。最終的に思いついたことが、視界には何も情報が入らないように机に伏せ、頼りにならない耳に頼ることでした。でも、追い打ちをかけるような言葉が……。

 

「Aju、いつまで寝てるんや!起きなさい。また欠点になるよ。」

 

先生のこの言葉で私の心は瀕死状態になりました。(寝てなんかいない!!聞けるように自分でも試行錯誤した結果だ!これ以上どうしろというんだ!)それから、教室に行くこと、学校に行くことが苦しい。授業も聞けないのに、学校に行く必要があるのかがわからなくなってしまいました。

大学生になってから、
ついに教室に入れなくなった。

本当は授業をきちんと理解したい、聞きたい、と思っていたのですが、「聞けなさ」を高校のときから感じていたため、授業を受けること=学びとは思えなくなっていました。

 

大学入学後も「生きづらさ」は続きました。クラスの活動が多く、授業後にあるイベントのミーティングに参加していなかったため、それを理由に座席の周りを囲われたり、教室を出てすぐに帰ろうとする私の先回りをして、ドアを塞ぐように待ち伏せされたり。本当に辛かったんです。

 

それと、教室が騒がしくて耳栓をしているときのこと。語学の先生に、「授業をしている先生に対して失礼だ。」と怒られて、クラスの人には、「君はどうしてそこまでして、離れるの。耳栓までして。仲間を思いやる心はないの?」と。そんなことを言われる日々が続いていました。

 

ただ、私が苦しんでいたとき、助けてくれた人もいます。それは、担任だった永浜先生。先生が私に、「友だちとつるまなくていいやん。ひとりでおったらええやん。ここに来とき。」と、言ってくれたんです。それから、先生の研究室が私の避難場所に。

 

ある日のこと。先生の研究室に遊びに来ていた人から、「教室に入るのがそんなにしんどいんやったら、休んじゃえ!」と言われ、初めてズル休みというものをしました。そのときはとても心がラクになったのを覚えています。

 

それから、心がしんどい日は授業を休むようになり、研究室で勉強していました。すると、今度は授業にいこうとすると、腹痛・下痢・胃痛・蕁麻疹・嘔吐という症状がでてくるようになって、教室に入れなくなってしまったんです。

思いもよらぬ場所で、
「生きづらさ」の原因が…。

症状を心配して、私が通う大学で事務員をしていた馬場さんと永浜先生が「大学の保健センターに相談に行ったらどうかな?」と提案してくれました。「症状を説明して、お腹が痛くなったり、胃が痛くなったりしないように、お薬をもらってきたらいいよ。」といってくれたので、行くことに決めたんです。

 

その保健センターに行ったときに、お医者さんから「発達障がい、アスペルガーだと思われます。病院へ行って詳しい検査をしたほうがいいでしょう。」と。お医者さんのこの言葉に、ひどく混乱して、何が何だかわからなくなりました。

 

それは、不意打ちの告知でした。

名前も正体も知らなかった、
子ども時代からの違和感。

大学生になってから、自分が「発達障がい」であることを知ったAjuさん。今では周りに理解されないことや周りと違うことを「生きづらさ」という言葉を使って表しています。しかし、違和感を感じながら生き続けるも、この言葉にたどり着くにも時間がかかったそうです。

「生きづらいというよりも、その当時は何かスムーズにいかないくて、抵抗を感じていたのだったと思います。」

そう語る彼女の子ども時代について伺うと。

小学2年生のときです。悪気なく、ぽっちゃりした女の子に対して、「将来おすもうさんになるん?」と聞いてしまったことがあります。この言葉でその子を傷つけてしまって。

 

それに、当時は「適当」というものがよくわからなくて、白黒の2択でものごとを決めていました。時間や数字に対して強いこだわりがあり、一緒に帰ろうと言われても、約束した時間を1秒でも過ぎると先に帰ってしまったことも何度かあります。それを、なぜだかわからないまま、友だちに怒られてしまい。

 

それと、宿題を休み時間にしていることを先生に注意され、「宿題は家でするものだ。」と言われれば、「宿題はどこでしてもいいはずです。自分ですることが1番大事です。」と返答。「間違ってる!廊下へ行け!」と言われ、しばらく廊下に立っていました。

 

先生に「反省したら、教室へ入りなさい!反省していなかったら運動場へ行きなさい!」と言われ、反省も何もなかったので運動場まで行ったんです。それで、私の中では、運動場=遊ぶ場所なので、遊んでいたら先生がカンカンに怒ってやってきて。「大バカもの!!さっさと帰れ!」と。心の中で「いろいろ場所を指定したのは先生なのにさっさと帰れって何だ!」と思いながら、帰ったこともありましたね。

 

あとはですね。だいたいいつも通学の途中で忘れ物を取りに行ってしまい、1回の出発で目的地につくことなんて、ほとんどなかったんですよ。小学生のときは、とにかくいろんなことを忘れてしまっていたから、空っぽのランドセルを背負って登校するなんてことも。

ずっと生きづらさは続く。
でも、「一人じゃない」から。

今も似たような「生きづらさ」はあります。でも、「生きづらさ」が子どもの頃と変わっていないというワケではないんです。もしかしたら、私の思考やあり方が変わってきたのかもしれません。

 

なぜかというと、今では一つひとつの起こったことに対して、どうすればよかったのか、どう工夫すればいいのか考えられるようになったから。特に大学に入ってからはそれらのことについて考える機会が多かった気がします。診断を受けて、自分について知ったことも理由の一つ。

 

でも、何よりも、自分の「生きづらさ」について理解してくれる人ができたからだと思います。永浜先生をはじめ、先生のお母さん、馬場さん、周りの人たちと「どうすれば過ごしやすくなるのか」について。対処法を一緒に考えることができたからです。

 

たとえば、大学へ向かう電車が遅延するとか、ルーティンが崩れることや予定の変更に心が乱されてパニックになってしまったこともありました。これで、パニックになる人は少ないと思いますが、私にとっては心の中の堤防が決壊して大洪水。水は渦巻き、うねり暴れて、どうしようもない感情でいっぱいになるんです。この感情はすぐには収まりません。

 

きっと、多くの人に迷惑をかけてきたと思います。でも、何度も何度も先生たちと、どうしたらいいか考えてきました。

 

「電車が遅れることもある。」

 

「目的は大学に来て勉強をすることで、電車に乗ることではない。電車にやられてしまったらそっちのほうがもったいないやん。」

 

「まず、いったん深呼吸をしよう。」

 

たくさんの思考の転換、気持ちを落ち着かせる方法を考え、教えてもらいました。もちろん、簡単にすぐに解決できるものではありません。本当に少しずつ少しずつ、私自身も、「このままではしんどいまま。どうしたら氾濫がおさまるのだろうか?」と、私の周りにいる人たちも粘り強く、「どうしたら、ラクになるのだろうか?」そう一緒に試行錯誤しながら、考えてきました。

 

今でも、予定が狂うと心が乱れるのは変わりません。でも、大洪水の“負の感情”で心が満たされることはなくなったんです。氾濫寸前までに抑えられるように、コントロールできるようになったからです。「1・2・3・4・5・6・7・8・9…」と、数字を数えて心を落ち着けたり、「あたたかい飲み物をのむと、少し心がホッとするんだったよな。」と考えたり。

 

他にも改善されていないことがありますが、でも試行錯誤しながら自分のペースで進んでいるんですよ。

「描く」ことで、
人生が前よりも楽しくなった。

作品名:「四角い建物のなかに・・・!」

作品名:「はじめまして」

作品名:「あれから72年」

作品名:「ただいま名古屋上空を飛行中です」

作品名:「ヒカリエから流れる黄色」

「描く」ことを始めるまでも、一生懸命取り組んできたことに対して、それなりに楽しみを感じてきたつもりでした。

 

勉強なら、知らないことを知っていく楽しさ。水泳なら、目標とするタイムに近づいていく楽しさを感じていました。それでも、「苦手な勉強はしたくない、しんどくて吐きそうな練習はしたくない。できれば避けたい……。」こんな、やりたくない気持ちがあるときだって。

 

ただ、絵を描くということに関しては、今のところそれがありません。思うように描けないことも少なくはないのですが、どうすれば描けるのか、考えている時間が楽しくて仕方がないんです。もしかしたら私は、自分の大好きなことを見つけたラッキーな人なのかもしれない。そう思っています。

 

お友だちからは、「最近ますます楽しそうに見えて、生き生きしている。最近のAjuを見ているとこっちまで嬉しくなる。」そう言われるようにも。

現在ではアーティストとして活躍しているAjuさん。「自分は描くことと出会ってから、『好き』を体感できている幸運な人物かもしれない。」と、彼女のこの言葉が、あたたかく私の心に響きました。

描くことになったきっかけは?もしも、描くことと出会っていない人生なら?」そう尋ねてみると、Ajuさんにとって描くことがどれだけ大切でかけがえのないことなのかが、よく伝わってくる答えが。

描くことに出会ったきっかけですが。まだ描きはじめて数年しかたっていません。小さいころから描いていたわけではなく、絵は学校の授業で描いていただけです。大学3年生で、障がいの診断を受けたとき、なんとなく大好きな電車の絵を、永浜先生の研究室にあったコピー用紙の裏紙に描きました。

 

小さな、平面の電車の絵でした。永浜先生がそれを見て、「へえ~、めっちゃうまいやん。そんな紙に描かんとこれにかき~。」とスケッチブックをくれました。とってもとってもうれしくて。私にとって描くことは、それこそ初めは、うまい下手など関係なく、気持ちを表現する手段。描きたいものを描くというだけだったんです。それと、絵を描いているときだけ、「障がい」という得体のしれない塊のことを考えなくてよくて、つぶされそうにならなかったんです。

 

だから、大学時代は、「好き」というよりは、「障がい」に目を向けないですむとか、落ち着くために、ときどき描いていたんです。大学を卒業した後、1年間通った就労移行支援センターで、パソコンでするデザインを習得したり、絵を描いたりすることが多くなり、楽しくて楽しくて、描きたくて描きたくて、どんどん夢中になっていったんです。夢中になるにつれて、描かれ出来上がっていく絵に、そのときの自分の全力を注ぎました。

 

完成した絵を見たときに、次はそれよりも1mmでも上手くなれるように。いつの間にか、そう思わずにはいられなくなっている自分。よく考えてみると、今の私にとって描くことは、1歩先の自分へ向かっていく行為なのかもしれません。

 

「もし、描くことに出会っていなかったら?」という仮定を想像するのは、「もし」という言葉が苦手な私にとって難しいですね。∞(可能性)-1(現実)のことについて考えなければなりませんから。数学ではこの計算は∞に収束するので、あらゆる可能性を考えなければならないんです。

 

その中から何とか一つ考えられるとすれば、私は人に何か教えることが好きなので、何か教えている仕事についているかもしれませんね。でも、過度な緊張による蕁麻疹、完璧主義を貫いて、自分で自分の首を絞めるでしょう。心身ともに疲れ果てて、一つの仕事を長く続けることができなくなっているような気がします。

足が痛くなるまで歩いた、
「東海道五十三次」を描く旅へ。

Ajuさんは昨年、東海道五十三次を自らの足で歩き、描くことに挑戦しました。きっかけは彼女が尊敬し、1cmでも1mmでも近づきたいと思うほどの憧れを抱いている山下清の展覧会を訪れたとき。憧れの人が五十三次を歩いていることを知り、「なんだか歩いて絵を描くなんて楽しそう!」と心を踊らせ、永浜先生に反対されるかもと思いつつも相談したAjuさん。

でも、「へえ~めっちゃ面白そうやん、やりやり~!」と後押ししてくれたのだそうです。さらに足りない旅費も「出世払い!お家のこととか、いろいろお手伝いしてね!」と出してくれ、応援してくれたのだと。

五十三次の旅は、距離は無理をせず、毎日15kmから20km程歩きました。はじめは、変わりゆく景色にワクワクしていましたね。が、足が痛くなるにつれて、地面ばかり見て歩くことも多くて。

 

でも、歩いて行くうちに時々あらわれる絶景との出会い。その美しい景色を眺めていると、足の痛さはどこかへ行ってしまうんです。歩きながら、写真を撮り、宿に着いてから、写真を参考に毎日1枚ハガキに絵を描きます。

 

私の住処となりつつある、下宿先(永浜先生の実家)へ旅の文章と絵を添えたお便りを毎日送っていました。ハガキに描いた絵は合計で61枚。先生のお父さんとお母さんが、信じられないほどの安さで一緒に住まわせてくれたんです。一応、下宿となっていますが、私の心がとても安らぐ場所。

 

また、旅に出たいと思っています。今は、一定の収入を得るため、アルバイトを始めました。長期の休みは取れませんが、いつか九州を歩きたいと思っています。その他には、東京と大阪の全景を5メートルくらいの紙にパノラマ風に描きたいと思っていますね。

心を救ってくれた、
「やさしさ」を広めたい。

最後に、今苦しんでいる人たちへAjuさんからメッセージがあります。

私は大学に入ってから、高校までとは違う自分に出会うようになりました。なぜ新しい自分に出会うことができたかというと、「自分を大切にしよう。」と言ってくれる人たちに出会うことができたから。

 

「あなたはあなたであっていい。」

 

「そう自分を責めるな。」

 

「私にできて、あなたにできないことがあって、私にできなくて、あなたにできることがあったとして、それを足して2で割って私たちがどれもまんべんなくできるなんて、人生つまらないわよ!」

 

など、これらの言葉に、何度も何度も、我にかえる自分。とても救われてきました。これまで、できない自分を否定することが多かったんです。だけど、このような人たちに囲まれて過ごした時間によって、随分と「自分らしさ」を取り戻せたように思います。自分を隠そうとせず、正そうとせず、そのままで生きれるようになりました。

 

私のような特性をもった人は、きっと似たようなしんどさ、「生きづらさ」を抱えて必死に食らいついて、生きていこうとしているんだと思います。「努力すればできる。」「ただやらないだけ。」「やったらできる。」「何度も言っているのに、また同じ失敗をして。」「いいかげん空気読めよ。」「周りをよく見ろ。」と、自分の「何がいけないのか?」「どうすればいいのか?」「これ以上、責めないで!」そう、もがき苦しんでいる人はたくさんいると思います。

 

私自身、大学に入るまでは、自分の「しんどさ」にきちんと気づくことができていませんでした。「しんどいけど、努力が足りないんだ。」と、ずっと思っていたんです。人に相談したとしても、「分かる、分かる~、あるある!!」その言葉を聞くたびに、「そうなんだ。みんなもこんなにしんどいのに、耐えて頑張っているんだ…。」そう思うしかなかったんです。でも、それでは、やっぱり上手くいきません。

 

「自分は何か違う」とは思えない・思ってはいけない環境で過ごすことは、自分を蝕んでいきました。

 

そのときは、自分の存在が暗く見え、周りが眩しく見え、友だちに相談することもできなくて。努力するのに疲れ、誰に言っても変わらない。この状況が続くことで、思考は内へ内へと向かい、外へ向かうことが少なくなっていきました。

 

「もう何で生きているのか。どうせ死ぬ人生。いつ死んでも一緒なら、今でもいいじゃないか。」

 

でも、死ぬこともできずに、悶々とした日々が。そのうち、人にも関心が薄くなり、楽しかったはずの学校も楽しくない。でも死ねない。そう思うようになりました。

 

唯一、楽しみだったのが、『GReeeeN』の新曲を楽しみに待つことでした。その曲は、自分を大切にし、決して諦めない、今を一生懸命生きようと。そのときの自分の半歩先を描いてくれる歌だったんです。それだけが唯一の自分の支え。次の新曲が出るまでは、生きていたいな、元気をくださいと日々を過ごしていました。

 

もし、今、もがき苦しんでいる人がいたら、この言葉が届くといいなと思います。頼れるものは人でなくてもいいんです。何かひとつ、身近な楽しみを捨てず、しっかりと握りしめていてください。今、楽しみが見つからない人も、あせらなくていいと思います。私も楽しみを見つけようと思ったわけではありません。楽しみは、自分でも気づかないすぐ横にあるかもしれないし、突然見つかるかもしれないんです。

 

そして、みなさんの近くに私と同じように苦しんでいる人がいたら、「あなたはあなたのままでいいんだよ。」そう言ってあげてほしいです。「どうすれば、過ごしやすくなるのか一緒に考えよう。」と言ってくれる人が一人でもいてくれると、心がそれ以上に苦しまなくてすみますから。

 

たった一人でもいると、またその人に会えることが嬉しくなります。明日もその人に会えると思うと、明日が楽しみになって、それが、生きる原動力にもなるんです。

Licensed material used with permission by Aju Gallery
TABI LABO この世界は、もっと広いはずだ。